初枝さんのお弁当②

台風が近づいてきて裏山の竹林が騒がしい

天候には全く興味がなく雨降りの鬱陶しさも感じない僕はその進路さえどうでも良かった。

直撃して休校にならないかなと誰でもが思い浮かべるようなことを思っていた。

しかし僕はこの先の事を想像して誰よりも期待をこめて直撃を祈りさえもしていた。

「朝ごはんを食べないから食費までもらっているのに申し訳ないからね、いつもは学食で食べているの?」

「あっ、はい」

下宿代としていくら支払っているのかを僕は知らないが住環境を考えると大した金額でない事は想像できた。しかしお婆ちゃんも商売とはいえ金額の問題ではなく充実した老後を楽しく生活することに重きを置いているとも想像できた。

下宿に戻ったその日はすき焼きだった。

今では同じ牛肉でも僕は焼肉よりもすき焼きの方を好んでいる。理由は簡単である、アルコールを伴う夕食はゆっくりと食したい為である。

もちろん両方が僕にとっては贅沢なものではある。贅沢なものはゆっくりとじっくりと

お酒と共に味わいたい。

焼肉は忙しい。

ちなみに我が家にはホットプレートなるものがなかった、当然焼肉というものを食べたことがなかった。

実家を出て初めての焼肉はほか弁であったが、社会人となり出張先で占い好きの得意先の社長さんに高級そうな焼肉屋さんに連れていってもらった事がある。

「タンを先に焼くんだよ」

部位の名前なんて知らない僕は訳が分からなかった。

今でもなぜだかわからない。そんなのどうでも良いではないかと思っている。

接待とは呼べない食事をした社長さんはそんな世間知らずな僕を面白がって終始和やかだった。

焼肉は難しい。

真剣な祈りをしている最中に、ふとした不安がこみあげた。

雨と風の中をお婆ちゃんは明日買い物に行くのだろうか。

小さくて細い小鳥みたいな身体では到底耐えることなく吹き飛ばされそうだ。

雨音で目が覚めた。

アコーディオンカーテンを開いて廊下に出ると茶の間の電気が付いている。

洗面所に続く長い廊下が暗いのは時刻の為ではなく雨戸を閉めているからだった。

トイレを済ませて歯を磨くのをやめた僕はもうひと眠りしようとしていた。

開け放したアコーディオンから光が漏れている。その先の横玄関で、もこもこと動く物体がある。一瞬、身構えたがすぐに腰を上げたお婆ちゃんがこちらを見て笑った。

「おはようございます」

「あら、早いね。学校は明日からでしょう?」手に持った長靴を廊下に置いて汗を拭っている。長靴の横には小さな雨合羽があった。

「外には出ないほうが良いよ、台風が来てるから危ないよ」

横玄関の土間から両手を付いて廊下に上がろうとするのを両脇を抱えて持ち上げた。

「あらー恥ずかしいね、力があるねー」おどけるように笑っている彼女は嬉しそうだった。

「ちょっと早いけど朝ごはんを食べる?昨日のすき焼きが余ってるよ」

日曜日だけは遅い朝食を食べていた。

歯磨きを終えて部屋に戻った。突然部屋のアラームが鳴り出したのでフックボタンを押すと同時に一層雨音が強くなった。

「しまった」夏休みの間ずっと毎朝アラームが鳴っていたのだ。ボタンを押さない限り鳴りやまないからお婆ちゃんが毎日部屋に入って止めていたことになる。

本棚に隠し持っている物を見られていないかという事の方が心配になっていた。

同居の3人と顔を合わせたくない僕は朝食を済ませ忙しく出てゆくのを確認してから茶の間に入っていった。

テレビには台風情報が流れている。

沖縄を過ぎたその大きな輪っかは九州を囲み始めている。

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