油絵のように原色で厚く描かれてこちらに迫ってくる平日の街並が、薄い中間色でなぞった柔らかい水彩画のように見えている。心情が周りの景色さえも変えてしまう休日の早めの朝に僕は家を出た。コンビニで仕入たおにぎりを公園で食べるかそれともファストフード店に入るかを迷った末にカップルを避ける事を選択した。体操をしている高齢者の群れを通り過ぎた辺りで引き締まった体躯をした人達が次々に僕を追い越して走り去っていく。
三人掛けのベンチの真ん中に座って缶コーヒーを飲みながら煙草に火をつけた。吐き出された煙が陽に照らされて影がうっすらと流れている。力なく流れる薄い煙が影を作り出す事を初めて知った。それでもそれは走り続ける人達の中で否定されるようにすぐに形なく消え去っていく。
健康的な人達に逆らうようにして存在している僕は、それでも自分の主張もここにあると確実に思っている。弱くはあるが間違ってはいないと自分を慰めている。
木製で筒状に形作られた台座の上部に嵌め込まれたアルミの灰皿には、吸い殻がこんもりと残っている。昨夜は何組の語らいを聞いたのだろうか。彼女との想い出を都合が良いように補正し始めてもいた。
側部をくり抜かれたごみ入れの部分に食べ残したおにぎりを捨てて立上った。
ターミナルビルはすでに雑踏で溢れかえっていた。
1Fにあるオープンカフェのベンチシートに座った男女を見下ろしながらエスカレーターはゆっくりと上階を目指す。折り返して2Fに昇り詰めるころに二人は見えなくなった。
ワンフロアーを全て支配しているこの街一番の本屋を初めて訪ねた。平積みされた新書のコーナーを通り過ぎて文庫棚の前まで来たが特に読みたい本などなかったし、好きな作者もいない。しかし何かに頼りたかった。
ハウツー物なんて信じていないし啓発もノウハウも今の僕には余計な物でしかなかった。ビジネス書は大嫌いだし、ましてや哲学は不要なものだった。誰とも交わりたくない僕はベストセラーも又、うざったく感じている。人気はなく有名でもないが今の自分に最適であり慰めてくれる、更に言えば勇気と元気を与えてくれるそんな本を探しに来た。
貴重な休日を一見無駄な事に費やそうとしている。しかし、もしかしたらとも思っているので昼近くの起床が日課の休日に、早起きをしたのだ。
やみくもに探しても見つける事が出来ないとは思ったが検索機は利用しようとしなかった。こんな時は偶然にも目が合うというか、何かの力が作用して探し当てることが出来ると信じていた。自分から求めて行くのではなく向こうから偶然にやってくる。少年の頃からずっと幸運は向こうからやってくると信じている。今でもそうだ。
しかしあの頃と一緒でどれだけ待っても描いている幸せが訪ねて来る事は今もない。
当然のように閃くようなタイトルは探せずにやがて諦めて検索機に向かった。タッチ画面に「幸運」と打ってみた、ずらりと表示された中に目を引くような物はなく、次に最も嫌う言葉の1つである「努力」と検索してみた。同じように沢山の書物が並ぶが心を動かすものは見つけられなかった。
少しずつ立ち読みをしている老若男女が増えてきている。此処にいる人達は予め求める本を決めて来店しているのかそれとも店にきてから選ぶのだろうか。
食べ物屋のそれと似ていると周りの景色を目にしながら思った。
小脇に5、6冊のハードカバーを抱えて更に文庫棚を物色している大学生らしき男性がいることに気付いた。新書であれば1000円を下ることはないであろうから既に1万円近く購入している。どれだけ何を学ぼうとしているのだろうと思った。こういう人が他人より秀でた何かを手にするんだろうとも思ったときに一気に僕は冷めてしまった。
来年のビジネス手帳コーナーの前で、結局こっちの方が現実的であろうし、真剣に仕事と向き合う為に必要な物であると思う事が正解なんだと諦めた。しかし、いざ手に取って何も書かれていない来年のスケジュールを見て震えがきた。
捲られて流れて行く月日を過ごす為に必要な物を自分が持っていない事を感じると同時に、上司の顔が浮かんで来て居たたまれない気分になった。落ち葉が流れるようには日々は過ぎないで、ぶつかりながら岩場に澱んだりしがらも流されて、沈み込んでしまって動かなくなることは許されず、しかしその終わりは決して示されていない。
この1ページの1週間をやり過ごす為にどれほどの苦しみと辱めを受けるのか。白い紙面には既に火にあぶると浮かび上がる悲痛な叫びをしている自分が描かれているようであった。
トイレから戻って来て結局、週刊ではない方の文芸春秋を手に取ってレジに向かった。
まだ並んだ人は少なく僕は先ほどの大学生風の後ろに位置した。店が用意した小さめのプラスチック籠の中には10冊程の書物が積まれていた。尻ポケットから財布を取り出した彼はポイントカードを抜き出してマジシャンがトランプを操るように財布を戻しながら掴んだカードを中指でカツカツとはじいている。読書家なんだろうと思っているとレジ待ちの人が消化されて店員が彼の籠を受け取った。本から外したバーコードを次々に読み込んでいく。話題になっている流行りの小説に続き文豪の文庫本のタイトルがレジスターのデジタル表示に金額と共に写し出されるのを目で追っていた。最後の一冊で2万円を超えたことにびっくりした。
次の瞬間、衝撃が走った。右の太腿の前でだらりと文春を握っていた拳は返品が出来ない程に爪を立てた。
その数と金額に驚いたのではない、最後の1冊のタイトルに驚いたのだ。
踵を返して検索機に戻った。