お母ちゃんが煙草を吸っていた。
あの時のミノル君みたいに煙をプーっと吐いていた。
その夜の父は町議会が始まって帰宅が深夜になると聞かされていた。
離れにある両親の寝室横の廊下を足を忍ばせてトイレに向かった。
「人が寝ている時にそんなに足音を立てて歩く奴がいるかーー」と怒鳴りつけられた僕はそれ以降、家の中では猫みたいな歩行を心がけていた。
ひっそりとすでに明かりが落とされた寝室で眠っている母を起こすまいと、つま先立ちでトイレに向かった。
昭和の初めに建った我が家は庭を囲むように廊下が流れ、途中にお部屋と呼ばれる離れがあった。コの字に曲がった先にドアがない小便器とドアがある大便器がありその向こうにお風呂があった。
波の音だけがしているいつもの夜だった。
洗濯機横のイスに座った母が開けはなした窓の外に向かって煙を吐いていた。
青い月の明かりが照らした横顔は濡れ光るように美しかった。
同時に僕の鼓動は激しくなり見てはいけない光景をとらえて怯えてしまった。
ゆっくりした天然で穏やかないつもの母ではなく都会の妖艶な知らない大人の女性に写った。
視界に僕を捉えると同時に右手に光っていたものが素早く左手に移った。
ジジジッと羽音をたてた蝉が庭のシュロの木から逃げ飛んだ。
暗がりの中から怯えたようにこちらを伺う母を助けたかった。
そして言葉を失った僕はとっさに寝ぼけたふりをした。
起き掛けのようにしばつかせた目をゆっくりと擦りながらふらふらと身体を揺らしてトイレに入った。気づいてないふりを装った。
見られた母より見た息子の方が驚いていた。
さっきまでワクワクしながら鑑賞していたミノル君から貰った写真よりも目前の光景の方が脳内を支配した。
絶対に見ていない事にすると自分に誓った。
程なく離れに戻る足音がした。
普段より少しだけ大きな音を立ててドアを閉めた僕はお酒に酔った大人風の足取りで部屋に戻った。
不安が残る。
僕が見ていない事にすることを神に許されたとしても煙の匂いが残っているはずだ。
そろそろ帰宅するであろう父は気付くかもしれない。
ニンニクの時どころではない事が確実に起こると恐怖を感じた。
もう一度猫になった僕は廊下に戻って洗面所の窓をあけて風の流れをつくった。
満足出来ずに台所の窓も少しだけ開けて煙がなくなってしまうことを祈った。
部屋に戻り思いを巡らせていた。
朱に交わったんだと思った。生活指導の先生が言っていたように朱に交わったに違いない。
根拠は沢山ある。最近は洋服が派手になり、コーヒーにしろ料理にしろ変化があるしお化粧もなんだか違っている。
専業主婦だった母が外で働き出しのが原因でミノル君がそうであったように母も不良になったんだ。
混乱した僕は枕に顔をうずめて祈った。
父にバレない事を、母がこれ以上の不良にならない事を、そして僕が気付いていないと母が確信していることを。
離婚を想定したころに玄関のドアが開く音がした。
今でこそ喫煙者は肩身が狭い思いをしてるがその頃はレストランでも駅でも職員室でさえも堂々と大人たちは煙草をふかしていたいたように記憶している。
煙を吹き出しながらお酒を飲む父の胡坐の中で笑って写真に納まる幼児の僕もいた。
自分自身も愛煙家であるが僕は煙草を吸う女性に対する嫌悪感は全くない。
この夜の事が影響しているかどうかは自分でもわからない。
灯りを付けて机に座った。
悶々とした気持ちを落ち着かせるように両肘をついて顔の前で両手を合わせた。
何事も起こりませんように、怒鳴り声が聞こえませんようにとただただお祈りをした。
おじいちゃん、おばあちゃん、ご先祖様、僕を守ってくれる神様、どうぞ今夜のことは見逃してくださいといつものお祈りをした。
今までは自分が抱える不安に対するだけの願いを母の為にした。
次回のテストで多少点数が悪くても構わない。古くなった自転車の買換えもしなくていいし、お小遣いが少し減ってもいいから神様なんとか父が気付かないで欲しいと願った。
何度も何度も目を閉じて祈り続けた。
ふと立上った視線の先にあるマールボロが目に飛び込んできた。
本棚の赤いハードカバーが並んだ上にミノル君がわざと置いたであろう煙草があった。
手にした僕は震えながら一本づつ抜き出し本数を数えた。そもそも全部で何本入っているのか?もう一度全てを箱に戻してみた。その抜け出た隙間からすると20本入りであるはずだ。
全部で18本ある。机の上に散らばった白い煙草をきちんと並べながらもう一度確認した。
あの時ミノル君は何本すった?
1本であるはずだ、間違いない1本だ。希望が湧いてきた、思考は纏まりに欠けているが何となくスッと心が少しだけ緩やかに軽くなりかけている。
いや僕がトイレに行っている間にもう1本吸ったかもしれない。
コーラだ
そうだコーラの缶に吸い殻を捨てた。
台所のゴミ箱にあるはずの飲み干したコーラの缶を確認しなければいけない。
しかしそこでは今まさに母が問い詰められていることが予想された。
期待をしていた。
すでにニコチン中毒になっていないと母を信じたかった。思春期を迎えた少年のように興味本位で煙草を口にした事を。
遊びに出かけた間に部屋に入った母が意地悪で置き土産をしたミノル君のマールボロを見つけたんだ。
そうであってくれともう一度座り直した僕は両手をあわせた。ベッドのしたに隠した写真を見られていても構わないとさえ思った。父が気付かない事と不良になっていない母を同時に願っていた。欲張りなのは重々承知していたが先ずは気付かれない事でありそれは母が怒られない事である。さらに気まぐれで煙草に手を出しただけでこのマールボロを処分すれば二度とこんな願い事はしないで済むからと。
ハッと考え直した。
自分が、僕が吸った事にしようと考えてみた。
父の怒りの度合いを想像してみる。どれだけの怒りで父は僕の事を叱りつけるだろうか。
想像するだけで身震いがするほど怖かった。
しかし母の身代わりになることを優先しなければならない事態に発展しそうな気もしていた。
その夜は結局、祈りながら眠ってしまった。