夕立が降っている間に帰路に着きたかった。
薄い空色をした夏のセーターは気に入っていたが充分に染みわたる程に雨に打たれたかった。強く刺さったまんまの言葉を反芻しながらゆっくりと重いペダルを漕いでいる。
稜線を縫うような曲がりくねった長い登り坂は景色を変えることなくすぐに太腿を痛くする。ほどなく息を切らした僕はハンドルに胸を預けて歩き出した。
ヒュルヒュルーと火花を漏れ落としながら上空に上り詰めた火の玉は、胸を打つような爆音と共に地面を明るくした。祭りは終わり何事もなく、夏は過ぎ去る準備をしている。
竹に絡まりながら伸びきって行き場を失い揺れている朝顔をぼんやりと見ていた。
地面を這った茎もその先では同じように紫色をした花びらに繋がっている。
「どうしたん、ぼんやりとして?珍しい事があるねーなんでもう起きたん?」
洗濯物を干しながら顔を上げた母はいつもと変わらない。
2階の手摺越しに見下ろした母の姿が小さく感じた。
思えば僕は蔑んでいたのかもしれない。
どこかに憧れがありつつも優位性を保ったまま、安全な場所から全部をひけらかすことなく少しずつ小出しにしてなるべく自分が傷つかないように。相手に怒られないように。
「何が怖いと?どうでもいいやんそんなこと」
阿比留君は呆れたように言い放った。いらだちを隠さない口調はすぐに次の言葉を用意しているように感じた。
「怖くはないんやけどね。何となく、何となく」
呆れたように笑った彼の横顔は随分年上に見えたし、彼には僕が小学生に見えていたに違いない。
相手の表情でその心持ちを読む事に関しては秀でていると自負していたが目の前の彼も僕に負けていなかった。
峠を超えてきた僕を歓迎とまでは言わずとも心をひらいてくれる事を期待していた。
ほとんど出校せず友人も少ないであろう彼には登校日も関係なくこうしてずっと家にいる。
閉じこもっているのではない事はうっすらと感じたし、病気ではない事ははっきりとしている。学校の様子を聞くこともなく担任の言葉を引き出そうともしない。
自転車を漕ぎながらシミュレーションをしてきたラジオ体操がなくなった事やミノル君が来て煙草を吸った事やエロい写真を見たことが凄く幼稚なことのように感じ始めていた。
こんな内容では置かれている境遇を近づけることはできないし友人になれない。
「おとうさんがね母親を殴ったんよ、離婚するんじゃないかって思ってさ。僕はどうしたら良いと思うか教えて欲しいんよね」
事実とは全く異なる、考えられる最悪の事態を想定して彼を伺った。
家の中でなく土手に座って話していた僕らは、カルピスを飲もうということで薄く立上っていた煙が太く濃くなった家の縁側に戻った。
グワッグワッグワーッと鳴き声がして阿比留君が後ろを振り返った。
犬小屋と思った真新しい木枠の小屋に鶏が2羽放たれている。
ほどなく首を切り落とされ肌色がむき出しの鶏を手にお母さんがくわえ煙草で僕らの前を通り過ぎた。目の前のカゴメケチャップと書かれた大きい灰皿に血がしたたり落ちた。
白が残ったフィルターは赤く染み渡ったが灰で濁っていた水は色を変えなかった
阿比留君はあっけにとられた僕を面白いものを見るように僕の顔を観察している。顎を引いて心情を推し測るように覗き込んでいる。居たたまれない表情を出さないように、務めて平静を装ったが激しく鼓動がしてきて身体全体が揺れるような感じがした。あの時のミノル君の表情と一緒の顔で僕を観察している。
カルピスを一気に飲み干した彼は僕の問いには答えずに得意そうな顔をした。
「面白い話をしてやろうか、河口にテトラポットがあるやろ。あそこに俺のボートがあるんよ。毎日沖に出てさアジとか黒とかメバルを釣るんよ、少し手元に残してあとは全部漁協に持っていくんよね。結構な金額にはなるよ。毎日、鯛が釣れたらうれしいけどね。でもね鯛より高く買ってくれるのは何だかわかる?」
来た時から感じていた彼の体臭の原因がわかった僕は、さも興味があるようにわからないと答えたがいらだちが消えた彼の言葉にほっとしていた。気分を害しては困るので少し考えることにした僕は、最近友人と釣りに行った時のことを思い起こしていた。
漁師の息子である岬に住む友達は船外機をやすやすと操り、沖まで繰り出してくれて僕はレジャー気分を味わっていた。大きい船を所有する彼の父親は立派な家を持ち裕福な暮らしをしている。母親はお弁当を作ってくれており果物が入っていることに興奮さえ覚えた。
アワビだ
岩礁に碇を下ろし素潜りでアワビを採った事を思い出した。高価な物が良くとれたねと母が喜んだことがうれしかった。
「違う、ウナギよ。アワビは俺は知らんけどウナギが一番高いよ、300円はくだらないからね」人々が蛍に歓声をあげている夕刻の川沿で、阿比留君は生活の為に昼間ウナギ漁をしているのだ。
彼の強さが羨ましかった。取り巻く変化にただ怯えて僕はおろおろとしている、自分で解決も出来ずに他人を頼り切って全てを誰かに任せている。自分は怪我をしないように高いところにいて、時が過ぎ去り問題が解決する事を願っている。だけどそんな自分が嫌になっても決して自分を変えようとしていないし阿比留君の境遇を否定さえしてもいる。
それが僕の全部だった。
彼はこのまま学校には行かず、ここでこの生活をずっと続けるのだろうか。聞きたい言葉を飲み込んで日焼けした肩を見ていた。Tシャツを捲り上げた中に納まっている煙草を取り出して火を付ける仕草がやけに大人に見えた。
お小遣いは貰っていないと彼は言った。
立場を近づけたい僕は「じゃあ僕は3日に一回うなぎを釣りあげている計算になるね」
会話が続くことはなかった。
ニヤニヤと笑っているだけの僕の全てを察知した彼は言葉を切った。
「羨ましくはないよ、帰れよ」
2学期は始まり、やはり阿比留君の顔を見る事は無かった。担任は何も言わず、クラスのメートの会話の中にも彼は現われない。
裕福でない事に不満を抱き、競うことも何かを努力することもしていない。そのくせに不満と不安はたくさん溢れている自分が情けなかった。彼に触発されて強くなりたかったが片方で彼になることは拒んでいる。
毎月のお小遣いは必要だったし新しい靴も欲しかった。
彼に入れ替わったら僕はどうするんだろうと想像する先に僕はいなかった。僕に入れ替わった彼はどうするだろう。彼もまた堕落した僕のようになってしまう気がしていた。
しかし彼が貧しさの中からやがて豊かさを得たらその経験から更に努力を継続して幸せな人生を送れるような気がする。生きる手段をすでに手にしており言わば豊かさを醸造している。彼はやはり憐れむ対象ではなくむしろ羨む対象なのである。
夕食の座テーブルの向こうに座った母が二の腕に絆創膏をしている。後ろの襖が所々茶色に変色していた。醤油さしが変わっている事に気が付いて想像は当たっていると確信した。
父が不在の日の夕食はTVが見える位置に僕が代わりに座っていた。
動揺はしなかった。