母が父に叱られる

口が乾いていくのを自覚する。

それだけで「また今日もか」不安と緊張が高まっていく。時間の経過とともに両耳の裏側がぞわっと騒ぎ始める。呼吸が細くなり次第に全身が痺れてきて立っていられなくなると膝に両手をついていよいよ不足する酸素を懸命に吸い込む。

視界が薄くなり尻もちをつく。

意識がなくなることはない

全校集会のたびに僕は保健室にお世話になる。

眠たさを優先する僕は朝ごはんを食べない

時間に余裕があったとしても食卓に座る事は無い。

これから学校に行かなければならないという、日常ではあるが非常事態に食欲を満たす心の余裕は絶対にない。

給食までにお腹がグーグーと鳴ることはなかったし別の理由もあって可能であれば給食もいらないほどだった。

父はお茶だけを飲んで仕事に出かけていたし姉はお菓子を食べていた。

我が家は全員がお寝坊さんであるから母は朝食を作らなかった。

いや、作らずに済んだというのが正解である。

母が父親に怒られる

確信した、母の間違いを絶対に父は認めないはずだ。ニンニクの時と同じだ。

父はカレーライスを食べない。

晩酌をする父はカレーライスの夜は違う何かをつまみに日本酒を飲んでいた。

僕には父が疎ましかった、余計な料理を作る必要を母に強いている父を嫌っていた。

その日、母はニンニクをカレーに入れた。ガーリックスパイスではなくニンニクをカットして入れた。その夜、母は得意げな顔をしていた。子供の成長に伴い専業主婦だった母は働き出した。新しくお友達になった誰かに聞いた事を実践すべくニンニクをカレーにぶち込んだのだ。

母は料理が得意ではない。いや苦手と言っても過言ではない。

料理が苦手な人は必然的にメニューの数も少ないと思うが、当時の僕は既に我が家の経済状況も把握していたので高い望みなんてしなかった。ハンバーグもエビフライもすき焼きも食べたくて堪らなかったが食べたいと言ったことはなかった。

母が作るチャンポンがとても好きだった。その日は決まってチャーハンもセットされていた。お腹いっぱいになれば良かった僕は母が作る料理にとても満足していた。

唯一、母が覚えた自慢の手料理といえるメニューがピーマンの肉詰めだった。

大皿に盛られた大きなの緑の山に僕はうれしさを大げさに表現した。

「美味しいもんね」

「おかあちゃん、美味しいもんね。ピーマンの肉詰めは美味しいもんね」

慰めていた、勉強が苦手な子がテストで良い点数をとった時のように褒めていた。

働き出した母はとても身体がきつそうだったし偏頭痛持ちでもあったのでかわいそうで堪らなかった。土日も仕事に出かけて帰宅すると、父が居ないことを確認して直ぐに横になっていた。身体を壊してしまって大変な事になりそうで怖くて堪らなかった。

「ちょっと肩をもんでくれない?」

細い声にいたたまれない僕は直ぐに両手に力を入れる。

料理の腕前のなさを自覚していた彼女は味付けを変えようとしたに違いない。

キッチンから流れ出る臭いは部屋全体に充満した

これが父の逆鱗に触れた。臭いがきつい食べ物を異常に嫌っていた。

家族で遠出をしたときに作ってくれたお弁当に母は黄色いたくあんを入れた。

白いご飯で温まったたくあんは異様な臭いを放っていた。

呆れたような表情の父を今も思い出す。

身だしなみに人一倍気を使う彼は仁丹も愛用していた。

ニンニクを入れたカレーを見下していた。

激しい言葉で罵倒した。

驚き怯えた悲しい表情の母がいた。

泣くんだろうと思った。

何も言えない僕はずっと下を向いていた。

その日は出張から帰った父が辛子レンコンをお土産に帰宅した。

家族全員が美味しく食した。

上機嫌の父は満足そうに日本酒を飲んでいた。

翌々日の日曜日、事件は起こった。

母は家族が喜んだ辛子レンコンを作り出したのだ。

僕は心が踊った。

慣れない手つきで料理をしている。しかし、いつもと違って笑顔で包丁を握っている。

煮物に入っているレンコンは知っていたがお土産のレンコンは卵でコーティングされていてツンッと鼻に抜ける辛子は子供の僕でも珍しくて美味しかった。

辛子レンコン料理に母が挑戦しているのだ。

いつもは半ば諦めの表情で疲れた身体を動かしていた母が笑っている。

「出来たね、おいしそうだよね」大皿に盛る母に笑いかけていた。

うれしかった。

母と一緒になって父に自慢しようと思った。

端っこの一切れを口に入れた。

我慢が出来ずに口に入れた。お腹が空いていたからではなく自慢を増幅したかった。

瞬間、激烈な辛さが口の中を支配した。

痺れるほどの強力な辛さが鼻に抜ける。すぐに吐き出した。

驚く母を横目に水道で口をゆすいだ。シンクの上に缶詰の辛子粉があった。

母は粉を水で溶かして液状になったいわば原液のままレンコンの穴に押し込んだらしい。

母が怒られる場面を想像した僕は、まだ布団の中で本を読んでいるだろう父が起きだす前に事を終える事を決意した。

「ごめんね、おかあちゃん駄目ね」悲しそうに言う母を見ることが出来ない僕は割りばしで懸命に辛子を抜いていた。

後年、結婚した姉の家で食事をする機会があった。

半面教師とは良く言ったものである。

食器から違った。海外で買ってきましたというような色柄で大きめの器が並んでいる。

夕焼け色のソースの下に、美を競うモデルさんのような配列でお刺身が並んでいる。

グラスに白いワインを少なめに注いでくれた。40cm角の敷布の上には小鳥の形をした箸置きと鈴の形がアクセントになったお箸が行儀よく置かれていた。

自慢のキッチンを覗いて調味料の数に驚き、包丁の数も用途に合わせて揃っているようだった。

母の料理の話題に移った。

姉と大笑いになった。

「あんたが貧血気味でよく保健室に運ばれてたから、少しでも体力を付けて欲しくてニンニクを入れたんだよね」

泣きそうになった。

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