歯を抜く人

歯医者さんが好きだ。正確には歯の治療が好きである。

激痛から解放されて穏やかな日々を取り戻せるのであるからむしろ喜んで笑顔さえ伴って診察室のドアを開けることができる。

今では無休で24時間診療のところもあるが、僕が育った田舎町では土曜の午後にはクローズしていた。木曜の午後も休診であったし平日も18時には閉まっていた。

土曜の夜に決定的に痛み出したら最悪なのである。それまで少しずつ疼いていた奥歯が激痛に変わってくる土曜の夜。早く治療を開始すべきだったと後悔してもどうしようもない。

月曜の朝まで痛みに耐えるしかない。しかし頭よりも腹よりも歯痛が最も苦しい事に異論がある人はいないような気がする。

「目を針で刺すしかないよね」より以上の痛みがあれば歯痛はとりあえず後回しに出来ると虫歯を沢山持っている友人は歯痛から逃れる方法を説いた。

まんざらそう思わなくはない程に苦しい。春琴抄である。谷崎さんも歯痛でなやんでいたのかしら。

鏡で口の中を覗いてみたり、タオルで硬めに頭を縛ったり、耳の後ろをマッサージしたり、体中のツボを押してみたりしたところでいっこうに痛みは引かない。

我が家にあった痛みを和らげる謎の黄色い塗り薬でも効果がなく、正露丸を痛みの根源である大きく空いた穴に突っ込む。

全く治まらない。

姉はTVを見ながらポテトチップスを食べている。母は台所で鼻歌を歌っている。

瀕死の僕に関心はない。当然である。「何回目?」姉の言葉に「早く治療しないからよ」と答える母に、僕はもう腹を立てる余裕もない。もちろん自業自得なのであるから如何ともしがたいのは自覚している。

しかし彼女らはこうも思っているに決まっている

「少しあの子は大げさだからね」

とんでもない思い違いなのだ。全くもって格別に今回の痛みは酷い。

拷問である。心臓を勢いよく飛び出した血液が顎の近くまでやって来て神経細胞達を見ている。出血を心配した脳が指令を出したようだ。寄ってたかって周りの関係ない他の部位の細胞までもが心配そうに眺めている。顔は心配そうであるが自分に危険性がない事を確信した後は小さい声で「はやく何とか対策してればね」と,いい気なもんで野次馬と化している。

急所の陥落現場では多くの神経細胞達の列が大きく乱れて波打っている。今まで安らかに硬い物体の下で安穏と過ごしていたはずが突然、命の危険にさらされている。黄色の液体がなだれ込んでおり更に悪臭を伴う丸い物体がすでに液状化して全体を覆っている。

ドクンドクンと大波を立てて応援の伝達指令を出しているが脳本部は適切な指示が出せない。

「36時間待て」が脳が出した最終の指令であった。

という話を酒席で先輩にした。

「抜けばいいやん」

「???」

「俺も昔、休みの日に痛み出したことがあってさ。ペンチで抜いたよ」

馬鹿じゃなかろうかと真剣に思った。

絶対に嘘であると、虚栄であると思った。

最も思考の中にない選択である、痛さが増す行為であり拷問が地獄になる。

土曜の夜8時に地獄を見ることは死を意味する。

それならば大金を父に借りて歯医者さんのドアを叩くことを僕は選択する。

よしんば歯を抜いたとしよう

痛みは歯から発生していない、神経からであるはずだ。歯を抜いたところで関係なくはないが関係ないはずだ。

「俺も経験あるよ」

二人目の嘘つきがいた。

「すっごく腫れるけどね、確かに痛みは和らぐよね」

まじか、、、

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