転校していった友人が中学校に入った年の夏休みに訪ねてきた事があった。
アメリカのベースがある賑やかな街の学校に通いはじめた彼は僅かな期間で都会の男の子に変身していた。
僕らにとってはバスに1時間半程揺られて映画を見に行く街であり、スケートを楽しんだ後に地下のレストラン街でハンバーグがちょこんと乗ったカレーライスを食べることが出来る街であった。憧れではあるが訪れるのはもちろん年に1、2度の事である。
毎月のお小遣いを少しづつ貯めてと言いたいところであるが、そんな計画性があるわけもなくそのほとんどは母親にせびっていた。
この町の少年達にとっては憧れの楽園でありここに無い全てがあった。
夏祭りと同程度の人混みが、この街ではいつも交差点を行き交っている。
ビルが立ち並びデパートがありスポーツ専門店もケーキ屋も米軍払下げの服を取り扱う店さえもあった。古本屋と古着屋という存在を知ったのもこの街であったし、初めて喫茶店で憧れのチョコレートパフェを食べた街でもあった。ファストフードもコンビニさえも初めて見た。
植栽が中央にある国が作った道路の向こう側は遠くにあり、渡した歩道橋から流れる車群を見るだけで心が騒いだ。
アーケードを行き交う多くの都会人のなかに本物のセーラー服を着た一際背の高い黒人がいた。日本の女性の腰に手をまわし大きい英語で話しかけている。
内容を理解出来るわけはないが彼が発したオーマイガー!だけははっきりと聞こえた。
一番の興味がある怪しげな映画館には誰も行こうとは言い出さなかったが決して小さくはないポスターには全員が注視しながらその前を通った。
そんな街にミノル君は引っ越して行ったのだ。
言葉使いが少し違っている事は直ぐに気づいたがそのまま聞き流した。
いきなりだった。
マルボーロと書いてあると読めた。
「マールボロだよ」といった彼は手慣れた動作で火をつけた。
不安がよぎると便意をもよおす僕を横目にコーラを飲み干して灰を叩いた。
僕はすでに言い訳を考えていた。
母はまだしも父にバレたら一大事である。
あせって部屋の窓を開け放ちトイレに向かいしゃがんで考え込む。
友の悪事によってドキドキしている自分の幼さを悔いてもどうしようもない。
蟻が這っている。土間から立上った小窓の隙間を縫い、行列をなしてマジックを引くように何かを運んでいる。隙間を開けず同じ速度でぶつからないようにタイルの目地に沿って何かを運んでいる。並び歩く先にそっと指を立ててみる。分断された兵隊たちはゆっくりと小指を避けるとその先の仲間を追う。再び最短距離を確保し列の最後尾に追いついた。
蟻は人間を怖がらないし攻撃もしてこない。悠然としたものだ。
疎ましく感じた僕の右手は小窓を全開にして行列を掃った。
「1本だけにしてね」
肺を患った男に懇願する女性のような態度である。
紫色をした煙が逃げるように窓のそとに流れ出した。部屋のドアを開けたことで反対側にある窓の外に解放されたように一瞬で無くなってしまった。
父の帰宅迄にはニオイもなくなると確信した僕は「みんな吸ってると?」「いくらなん?」
「美味しいと?」矢継ぎ早の質問にミノル君は笑うだけで答えない。
「ヨウモクってわかる?」
「さっぱりわからん、聞いたことない、木曜は今日だけど」
一人で笑った。
「それからね」といって赤いマールボロをポケットにしまった彼は急に真剣な顔をした。
身構えた。もう煙草に火をつけない事を安心した一瞬後に直ぐに僕は緊張した。
デニム地のバッグに突っ込んだ手は紙切れを数枚掴んでいる。
写真だとわかった僕は彼女がすでにいるんだと、それを自慢したいんだと悟った。
数枚の写真を手にした彼は、写真を見ずに僕の顔を覗き込んでいる。
優越感に浸りたい彼は僕の更なる動揺を楽しもうとしている。
都会で生活して煙草を覚えて彼女も出来てときたら少年達はまず降参である。
他人との優劣だけを生活の糧としがちな少年達の悲しい結末でもある。
「彼女やろ?可愛いんやろ?」
負けを認めた僕は素直に写真をせがんだ。
野球は勝っているがサッカーは彼のほうが上手い。PKでトゥキックをして笑われた事は一生忘れないと思っている。
バレーボールにいたっては歴然とした差を確保しているが足は彼のほうが早い。
学校の成績はほぼ同程度だったわけだからこの日を境に彼は追いつけない程のステージに駆け上がったわけである。
「紙芝居をしてやろうか」得意顔の彼は写真の束をテーブルの上でトントンとトランプのようにキッチリまとめた。
園児になった僕は目を丸く大きく開いて彼を見つめた。
やっぱりやめようかなと言わせないように写真の裏側がひっくり返るのを待ってそこを凝視した。
「ハイ一枚目」親指と人差指が入れ替わり回転された写真には外人さんが向き合っている。
物心がついた頃に背が高い異人さんはすでに見たことがあった僕は大して驚きもしない。
この後の展開を期待していたが望まない方向に、彼女紹介の方向に行きそうにない事に少し期待が萎んでいた。
「誰?」とだけ言って2枚目を催促した。よく見ると左は日本の大人の女性である。
背がかなり低いようで黒人さんの胸位の位置で笑顔を作っている。
二枚目で彼の腰に手を回した彼女はカメラに向かって目を閉じている。
両親の寝室にあるオール讀物を盗み読みしていた僕はその後の展開を察知した。
開け放した窓の外で見たこともない緑色の小鳥が屋根の上でゆっくりと羽根を繕っている。
電線にとまった雀達はうるさく騒ぐがバスの通過と共にすぐに群れをなして飛び立った。
ミノル君が帰った夜に窓枠に置き残したチョコレートに蟻が群がっていた。
ノートを破りホーキで蟻たちをすくった僕はゆっくりと瓦に投げ離した。
写真は僕の宝物になった。