初枝さんのお弁当

訪ねて来た人が玄関の扉を引いて「ごめんくださーい」

2段の框の先に広がる3畳程のスペースには特に何も変わった物は置かれていない。

「おや、いらっしゃい。どうしたの?こんな暑い中」奥の方から家人が顔を出して膝を折る。

「いえいえ、特になんという事もないのですが」といって客人は中元を渡す。

というような、この玄関先のチョイの間的なスペースが新しい僕の住空間となった。

高校に進学した僕は自宅を出て下宿人となったのだ。

立派な2階建ての旧家には僕のほかに3人の社会人が既に生活していたが僕だけが狭い何とも表現しがたい3畳間に存在した。

主であるお婆ちゃんは一人で銀行マンと中学教師と作業服を着た人、そして新たに加わった僕の食事の世話をした。

身の回りの事は全て自分達だけでやる約束の元、お婆ちゃんは朝食と夕食作りだけを楽しそうにしていた。

母には申し訳ないが味付けは格段にお婆ちゃんのそれが優れていた。

しかし、メニューに不満があった。

揚げ物が極端に少ない。煮物、焼物はあるがトンカツもハンバーグも食卓に現われることはなかった。

又、朝食の習慣がない僕に味噌汁だけでも飲んで行きなさいと優しく説いていたが頑なに断っていた。

試験が始まりいつもより早く学校を出た僕は商店街でお婆ちゃんを見かけた。八百屋さんの前で物色している姿を少しの間観察していた、すでに両手にビニール袋を抱えた彼女は店員に告げてキュウリをその中に詰め込ませた。

歩き出した後を追って声をかけながら食材が詰まった袋を手にした僕はそれでもお婆ちゃんよりも早く歩が進む。

手を引いてあげたいがふさがった両手を1つにまとめることはことは出来なかった。

「毎日買い物をしているの?」言葉を探した僕を見上げた顔は優しく微笑んだ。

「若い男性4人のお腹を満たさないとね」

変形性膝関節症の手術をしたが経過が思いのほか良好で気持ちを取り戻すことができた、ご主人を亡くしてから沈み込んだ生活をしていたが思い切って下宿屋を営もうと思った事を打ち明けてくれた。

「今日は何が食べたい?」そう言いながらも息を切らせて左右に上体を揺らしながら懸命に僕の後を歩いていた。

下宿屋に繋がる急な坂道の下で僕は両手の袋を地面に置いてお婆ちゃんの右手を学生服の腰のベルトに引っかけた。

「あらまぁ、恥ずかしいねー」振り返るとくしゃくしゃな顔が嬉しかった。

キュウリとゴーヤを勘違いしたのを気付いたのは夕食の時だった。

僕はそれまでゴーヤを食した事は無くチャンプルなんて知る由もなかったが珍しい食感とその苦味のとりこになった。

お小遣いに余裕がない僕に昼食の時間は苦痛だった。周りのみんなはほとんどがお弁当持参であり、その他は学食に通っている。

2,3百円の定食は手が届かず僕は売店で大きめの菓子パンとパックのオレンジジュースで済ませていた。

貧しさを悟られたくない僕は3時限目が終わると同時に売店に走った。目指すべきパンはすぐに売り切れる事が理由の1つであるが何より、昼食時にはもうパンを食べたから昼食は要らないという事で難を逃れようとしていたのだ。学食に誘われる事もなく机に突っ伏して寝ていた。友人の茶色の冷凍食品であろうコロッケやフライ物を食べたくて堪らなかった。

実家で夏の休みを過ごして戻った時にお婆ちゃんが衝撃的な一言を僕に言い放った。

「2学期はお弁当を作ろうかね」

「えっ?」

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