思い返すに中学に進学してからクヌギの木を見に行くことをやめたような気がする。
ラジオ体操がなくなると同時に早起きをしなくなり、それと共に森に出かける事さえもなくなってしまった。
身体が成長して精神性も大人に近づくと興味の先は随分と変化するものだ。
僕は高校に進学すると家を出て下宿屋さんで過ごした。
たいそう立派な、門構えもしっかりしたお屋敷に複数の社会人と共に住んでいたのだが食事の世話は同居家族がいないお婆ちゃんがひとりで切り盛りしていた。
朝夕に加えてお弁当も持たせてくれた彼女には今でも感謝している。お弁当の中身はたいそう不満であったがそれ以外では何も不自由がなくただただのんびりした高校生活を謳歌していた。
親の目が届かなく、他人といえどもやさしいお婆ちゃんが居て洗濯の必要はあったものの日々の生活の中でだれにも邪魔されず自分の為だけに自由時間を所有できる喜びの中で過ごすことはたいそうな心地よさがあった。
しかしその境遇の良さが僕にとっては悪いほうに動き出したことは言うまでもない。
僕は悪事を働くことはないので見返りとして怠惰な生活を手に入れたのだ。
紫陽花が窓の外に大袈裟にその姿を誇っている。
後ろには春にタケノコが楽しみな竹林を背負って高くそびえる石垣がキャンパスのように連なっていた。
日曜の雨の午後、僕はその景色に見とれ風情を感じつつラディゲの小説を読みふけっていた。お婆ちゃんはコーヒーを淹れて来てくれて「お勉強ばかりしてるね、内の息子もマモちゃんのようにお勉強が出来る子供に育ったら良かったのに」と感心している。
なわけはなく母が送ってくれたダースのサイダーを飲み干してしまって催促の電話をした後に週間ベースボールを読みながら何か楽しい事が起こらないかなあと只々時間を消化していた。
折りたたんだ布団にもたれて背伸びをした時に右足の先で何かが動いた。
一瞬、大きな埃の塊が風に揺らめいているかのように見えたが明らかにこちらを威嚇している。ゆっくりと上体を起こしてみるが恐怖で次の動作が出来ないし相手が何者かわからない以上は対策を思いつくことが出来ない。
巨大化したムカデ?
いや違う、それよりもデカい。
沖縄に生息しているというゴキブリ?
いやそれとも違う、黒くない。
昆虫なのはわかる、ムカデより足の数がはるかに多く山なりになった無数の足がゆっくりと波打っていてゼンドウ運動を繰り返している。昔遊んだトムボーイみたいだ。
何も対応が思いつかない。
ドキドキと鼓動が高くなり耳の後ろがゾワゾワしだして身動きがとれないが、声をあげると奴が怒って攻撃してくると確信めいたものがあるためにお婆ちゃんを呼ぶことができない。
瞬間、見たことのない上下と前後の足の動きで素早く机の下に移動した。明らかにゴキブリよりも動きが俊敏である。
目の前の恐怖からは逃れたがすぐに不安は増長してくる。
奴は今どこにいる?
机の下のどの辺りにいる?
そしていつまでそこにいる?
次々に恐怖は波打って襲いかかるのだ。
ついさっきまでぼんやりと惰眠を貪るように穏やかだったこの部屋は一瞬にして戦場と化した。
もはや子ウサギとライオンに化した我々の勝負は決定されているようなものである。
今度はいつ襲い掛かってくるかもわからない戦慄と戦わなければならない。
もうだめだ、もう決まった。
このまま実家に帰ろう。
明日の体操服を忘れたと言ってこの部屋を出よう。